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2016年03月13日

●秋のイタリア報告④フィレンツェ(服部理恵)

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*メルカート・チェントラーレ

次の日は、フィレンツェの街をぶらぶらしました。
朝いちばんに、フィレンツェ市民の台所、町のほぼ中心に位置する中央市場(メルカート・チェントラーレ)を訪れました。ここは、地元の人たちが毎朝通う、生活に密着した市場です。
1階では、鮮魚、精肉、チーズなどの乳製品、野菜、乾物などたくさんの物を売っています。
2階は簡単なレストランがいくつも入っています。本格的なものから、ジェラートまであるので、目移りしてしまいます。
私は、愚かにも朝食でお腹がいっぱいでしたので、作り立てのモッツァレラチーズと甘いトマトの串サラダをいただきました。チーズが本当に美味しかったです。

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*モッツァレラチーズとトマトの串サラダ

さて私は、歩いてサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂へ向かいました。
イタリアといえば・・・と連想させる建物のうちの一つです。
日曜なので、すぐ中に入れず残念でした。

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*サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

その後、お土産物がならぶ大きな通りで、目的のお店であるVenchiという老舗のチョコレート屋さんにやってきました。
量り売りのチョコレートとジェラートが並んでいます。最高に美味しかったです。
この日のお散歩はまだまだ続きます。

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*老舗のチョコレート屋さんVenchi

2016年01月19日

●秋のイタリア報告③ボローニャからフィレンツェへ(服部理恵)

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*町から眺めるアシネッリの塔

ボローニャでの自由な時間、元気な所長がお独りで町の3大塔の一つ「アシネッリの塔」に登られました。

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*その時の所長が撮った絶景写真がこれ

私はついていけず、申し訳ありません!
さてボローニャの街を散策していて、ふと入った「キールズ」というニューヨーク発の化粧品のお店の店員さんが気さくで一緒に写真を撮りました。

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*キールズの店内にて

夕刻、列車でフィレンツェへ向かいました。
ホテルにチェックイン後に連れて行っていただいたのは、ステーキ屋さん。
ガイドブックに載っているような所ではなく、地元の方が訪れるレストランです。
おしゃれな店内には、大きな冷蔵ケースがあり、その中には大きな肉がならんでいました。

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イタリアといえば、パスタやピッツァのイメージでしたがフィレンツェの名物料理はトスカーナ地方のステーキ!しかも分厚い肉をレアで焼いて食べます。
すごいボリュームでしたが、美味しくてペロリと食べてしまいました。
ワインも美味しかったです。美味しいものばかりに出会うイタリアの旅はまだ続きます。

2015年12月27日

●秋のイタリア報告②アスクレピオス像と対面(服部理恵)

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朝のバチカン市国はとてもにぎわっていました。
澄んだ空気の中のサンピエトロ広場です。
その後、ローマ市内のボルゲーゼ公園へ。この地でアスクレピオスは英雄です。
(詳しくは「人の薬の羅針盤」をご覧ください)
素晴らしい公園の中に池があり、その小島には神殿がありアスクレピオスの像が堂々とたっています。そしてそばにはヒギエイア像が微笑んでいました。
素晴らしく、美しい情景でした。

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ローマの水道橋公園を訪れました。古代ローマ時代に作られたなんて、信じられないくらい巨大で計算された建造物です。

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その後、列車に乗り、ボローニャへ移動しました。夕食は・・・本場ボローニャのボロネーゼです。イタリアではタリアテッレ(パスタの種類)がよく使われるそうです。濃厚なソースとよく合い、大満足でした。
また生のポルチーニのサラダも絶品でした。
イタリアのワインもいただき、楽しい宴となりました。

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2015年11月26日

●秋のイタリア報告①ローマの街へ繰りだそう(服部理恵)

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デュッセルドルフで行われるFIPとエキスポファーマ参加が第一目的ですが、その前にイタリアへ行きましたので、お伝えします!

まず、ローマ空港へ到着、ホテルに荷物をおいて、夜の街にくり出しました。
夜のパンテオンです。ローマ皇帝ハドリアヌスによって再建されたものです。とても大きく、ライトアップされて歴史を感じさせる建築でした。

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次にナヴォーナ広場へ。夜遅いのにたくさんの人が集まっていました。
ここで、遅めの夕食を食べました。本場のピザに感動しました。

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夜間開いている薬局に入ってみました。店内の写真は撮れませんでしたが、店内は常に観光客で賑わってました。

次の日は、朝からトレヴィの泉へ。
残念ながら改修工事中でした。2015年11月くらいまでの予定だそうです。
中央に水を司るネプトゥーヌス(ポセイドン)が立ち、左に豊饒の女神ケレース(デーメーテール)、右に健康の女神サルース(ヒュギエイア)が配置されています。
非常に有名なところですが、このようにギリシャ神話の神の彫刻が泉を囲っているとは知りませんでした。吉岡先生に教えていただき、改めて町全体が美術館といわれるほどのところだと感じました。

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2012年09月04日

●イタリアの医薬品・衛生材料の自動販売機(吉岡ゆうこ)

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*アドリア海の女王と呼ばれたヴェネチア

2012年の夏のイタリアは猛暑続き。視察に行った8月の第3週目はその絶頂期で、連日38度以上でした。その時期のイタリアはちょうどバカンス時。現地の人は店を閉めて避暑地へと退散し、街にいるのは観光客相手の人と観光客ばかりです。最初の視察地ヴェネチアの薬局で面白いものをみつけました。薬局の前に置いてある、医薬品と衛生材料の自動販売機です。この自動販売機はこれまでローマやフィレンツェ等の大都市では見たことがありませんでしたが、今回の視察ではヴェネチアとその近郊の都市パドヴァで目にしました。どの薬局にも置いてあるわけではなく、賑わいのある町なかの薬局に置いてあるようでした。イアリアの薬局は、昼時に閉まっていたり、8月のバカンス時期に閉まっていたりと(イタリアではクリニックも薬局も3週間くらい休業してバカンスに行きます。日本ではちょっと考えられないですね)、医薬品を必要とする時に開いていないことがあります(もちろん街の中でどこかの薬局は営業しています)。夜も7時くらいに閉店しますので、コンビニのないイタリアでは、ちょっとした必需品に困ることがあります。それを解消するためか、医薬品等の自動販売機(24時間対応)が置いてあったのでびっくりしました。中身はコンドーム、生理用品、歯ブラシ、ヒゲソリ、シャンプー、日焼け止め、のど飴、絆創膏、妊娠検査薬など。現地の方に聞くと「とても便利」とのことでした。

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*医薬品衛生材料の自動販売機のあるヴェネチアの薬局

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*とても便利な自動販売機

2007年07月16日

●イタリア●フィレンツェ・世界最古の薬局“サンタ・マリア・ノヴェラ薬局”(城戸まゆみ)

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*薬局の正式名はOfficina Profumo-Farmaceutica di
 Santa Maria Novellla

いよいよ世界最古の薬局と称される“サンタ・マリア・ノヴェラ薬局”へ。伝統ある薬局の、その入り口はひっそりと目立たない。「どこかしら?」と思いつつ歩いていると、独特な趣のあるの香りが・・・。その香りを辿るようにして見つけた扉を開けると、大理石の床とアーチ型の高い天井のエントランスホール、そしてハーブ特有のいい香りに包まれます。どっしりと重い大きな扉を開けるとさすがです。メディチ家を始め、ヨーロッパの王族、貴族たちを顧客としてきた薬局の伝統と威厳。ゴシック様式の天井には4大陸の人物を表現したフレスコ画が描かれており、この薬局が世界を代表する薬局の一つであることを讃えています。

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 *薬局の高い天井を思わず見上げると
  アーチ型の天井に4大陸の人物が描かれている

1220年頃、フィレンツェにやってきたドミニコ会修道士が、修道院の庭で数々の薬草を栽培し薬を調合したのが、この薬局の事始めです。カトリック時代のヨーロッパではどの修道院も農業や医学など、それぞれ得意な分野を持ち、高い技術と知識を持っていたといいます。サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局が得意としたものは、薬効のある水やリキュール、そして香水や石鹸、クリームなど。修道院として400年ほどの診療活動を続けた1612年、サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局は正式に薬局としての創業を認められます。その後も薬草製品の研究は続けられ、世界中にその名は広まっていきます。
薬局創業当初から1848年まで使われた旧薬局室(現名称「エルボステリア」)が、薬局の歴史を伝えようと1995年から一般公開されています。緑の芝の中庭に面したその部屋には、当時のハーブ商品や万能薬と称された薬草リキュールなど、貴重な歴史ある製品を観たり、購入したりすることができます。

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 *右上/初代薬局長フラ・アンジャロ・マルキッシ(15921659)聖職者でありながら植物学者、科学者として研究所の名声をあげた
 左上/当時のトスカーナ大公フェルディナンドⅡ世(メディチ家当主)から初代薬局長フラ・アンジェロ・マルキッシに贈られた聖ピエトロの肖像画
 額縁はメディチ家の薬玉の家紋と薬局のシンボルである蛇をモチーフしている

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 *代々の薬局長の肖像画が飾られた部屋
  ヨーロッパの時代の荒波を乗り越えてきた
  薬局の歴史が感じられる

2007年05月12日

●イタリア●薬剤師ルネサンス(吉岡ゆうこ)

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     *1513年のダ・ヴィンチ自画像

2007年、神戸で開催される日本薬剤師会学術大会のメインテーマは「薬剤師ルネサンス」です。1994年、私が代表を務めていましたアポプラス研究会においてアポプラスフォーラム‘94「薬剤師・ルネッサンス」と題してシンポジウムを開催したことが思い出されます。
医療法の中に医療の担い手として薬剤師が明記され、医薬分業が進展の兆しを見せ始めた頃のことです。それから13年、医薬分業は進展し、処方せん受取率は50%を越えるようになり、2007年には医療法の中に調剤を実施する薬局が医療提供施設として明記されました。しかしながら今後の薬局や薬剤師はどのような方向に進んでいくのか暗中模索の状態が続いています。2006年夏に、イタリアで発祥したルネサンスとはどういうものだったのかを直に肌で感じたく、イタリア薬学視察旅行に出かけました。
2003年、ダン・ブラウン著「ダ・ヴィンチ・コード」が出版され、それは瞬く間にベストセラーになり、2006年には映画も公開されました。過去の人であったレオナルド・ダ・ヴィンチは一躍脚光を浴びています。レオナルド・ダ・ヴィンチはイタリアのフィレンチェ近郊、ヴィンチ村で生まれ、17歳の頃メディチ家が支配するフィレンチェのヴェッロキオの工房に入りました。そこから彼のルネサンス時代における芸術家、建築家、科学者、医者としての営みが始まります。ダ・ヴィンチ・コードではミラノの聖マリア・デッレ・グラツイエ教会にある「最後の晩餐」、それからルーブル博物館の館長のダイイングメセージの中に「ヴィトルヴィウス的人間」がでてきます。「ヴィトルヴィウス的人間」は宇宙法則を表す円と正方形とに内接して中心に人間がいます。ヴィトルヴィウスは紀元前1世紀のローマの建築家の名前です。ダ・ヴィンチは彼が書いた「建築論」を読んで感激して鏡の中に自分の姿を映し出し、デッサンした、描かれている人物は40歳頃のダ・ヴィンチ自身であると言われています。
ダ・ヴィンチ・コードが発刊される前から、レオナルド・ダ・ヴィンチには少なからず興味がありました。欧米の医学書の表紙に「ヴィトルヴィウス的人間」というダ・ヴィンチのデッサン画が用いられることがあります。最初に目にしたのは15年前アメリカのクリニカルスキルプログラムという通信教育のテキストにおいてでした。このテキストはネオフィスト研究所の教育プログラムのお手本になっています。それからヨーロッパでも医学関連の書籍の表紙によく登場します。

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*アメリカの通信教育のテキスト

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*ドイツのファーマカードのパッケージ

このブログのタイトルバックは、ダ・ヴィンチの「ヴィトルヴィウス的人間」とトレビの泉のヒギエイア像、イタリアの薬局のマーク、イタリアのフィレンチェの街並み、ドイツの古い薬局の薬壺などのです。ネオフィスト研究所の薬学の歴史に対する畏敬の念と、薬剤師ルネサンスに対する情熱を現しています。

2007年05月07日

●イタリア・ドイツ●医学、薬学のシンボル(吉岡ゆうこ)

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    *ローマ・トレビの泉

欧米では医学、薬学のシンボルとしてアスクレピオスの杖とヒギエイアの杯が使われています。
医学のシンボルとして、欧米では古くから「アスクレピオスの杖」が用いられ、その杖には一匹の蛇がからまり、健康、不老、長寿などを象徴しています。薬学のシンボルとしては「ヒギエイアの杯」が最も多く用いられていますが、乳鉢乳棒、天秤、アスクレピオスの杖なども用いられています。

<アスクレピオス>
アスクレピオスはギリシアの英雄で医術の祖であり、のちに神としてまつられました。ギリシャ神話のアポロンとコロニスの子とされています。人に治療や薬事の技術を伝授し、医術に長じ、慕ってくる患者のために神殿を建てました(アスクレピオス神殿)。これが最初の病院と言われるものです。地上のすべてを知るヘビに学んだ薬草や催眠法を用いて病人を治癒しました。妻エピオネとの間に四人の娘を持ち、パナケイアPanakeia、アケソーAkeso、ヒギエイアHygieia、イアソーIasoといい、いずれも健康、治癒などの意味があります。彼は病人の診療で山野を歩き回るとき、丈夫な太い棒を杖として用いました。 その杖はカドゥケウスとよばれその杖には1匹の聖蛇がまきついています。蛇は守護、魔力、神秘、健康、不老、長寿、不死などを象徴しています。患者の患部を蛇がなめるとその魔力で病気が治ったといいます。カドゥケウスの杖とその杖からみついたヘビのマークはWHOのマークでもあります。欧米では救急車の車体マークにもなっています。

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*イタリア救急車のマークに使われている
 カドゥケウスの杖とヘビ

<アスクレピオスヘビとヒギエイアの杯>
アスクレピオスヘビは、古代ギリシア人やローマ人が神をたたえて建立した病院をかねた神殿で飼育されていました。娘であるヒギエイアは父からの信頼が厚く、聖蛇に餌を与える役を担っていました。ヒギエイアがヘビに餌を与えるときの杯を「ヒギエイアの杯」と称します。

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*左/ドイツの薬局のドアノブ
 右/ドイツの薬局の看板~マークはApoteke(アポテーカ:薬局)のAとヒギエイアの杯とアスクレピオスヘビです。

イタリアの薬局では十字のマークとヒギエイアの杯を組み合わせた看板を利用しています。そしてイタリアの薬剤師さんは胸に薬剤師バッジをつけていたのですが、そのバッジの模様はカドゥケウスの杖とアスクレピオスヘビです。
イタリアのトレビの泉はとても有名ですので、テレビや写真でごらんになったことがあると思うのですが、その正面右手に建っている彫像の一つがヒギエイアです。確かにヒギエイアの杯をもち、そこにヘビが巻き付いていました。
(ドイツ2005年2月/イタリア2006年8月取材)

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    *"トレビの泉"のヒギエイア像
     ヒギエイアの杯とからみつくヘビ

2007年04月21日

●イタリア●フィレンツェにて"メディチ家巡り"(城戸まゆみ)

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*ドゥオーモから望むフィレンツェの街並み

花の都フィレンツェ。教会や建物には職人技を駆使した繊細なレリーフ、今にも動き出しそうな広場の彫刻、体の温もりや息吹が感じられる人物画・・・。フィレンツェは今もそのままルネサンスの街並みを残し、芸術品の宝庫として人々を魅了する街です。
キリスト教、ローマ教会の思想や迷信に呪縛された時代は、芸術や学問にとっては暗黒の時代でした。ときの大富豪“メディチ家”が持ち込んだ斬新な気風は、フィレンツェの街にルネサンス旋風を巻き起こします。

   “青春はうるわしくも
   あわれはかなきかな
   今をこそ楽しみてあれ
   何ごとも明日ありとは定かならねば”

当時、銀行家であり、パトロンとして芸術家や知識人たちを保護したメディチ家のロレンツォ(144992)の詩です。ルネサンス以前の「この世でしっかりと罪を懺悔し、来世で救われよう」という思想から一転した「今この時を楽しく生きよう!」というこの詩。ルネサンスの新しい精神がよく伝わってきます。

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*街の中心ドゥオーモ"花の聖母教会"こちらは正面(ファサード)

メディチ家の歴史を紐解きながらフレンツェを散策しました。街のいたる所で見られる印象的な“薬玉の紋章”。これがメディチ家のシンボルであり、一族がもともと医業や薬業を継承してきた家系であったことに由来します。そもそも英語のmedicine(医療、薬)は“メディチmedici”が語源だとか。メディチ家の守護聖人として祀られる「聖コスマス」と「聖ダミアン」は、診断用の“採尿瓶”と“乳鉢・乳棒”を手にした医薬の守護聖人でもあります。医療や薬とフレンツェの大富豪メディチ家が繋がっていきます。
オーデコロンの原点となった「王妃の水(オー・デュ・ラ・レーヌ)」は、メディチ家からフランス王室へ嫁いだ“王妃カトリーヌ”のために特別に調合された香水です。それを生み出したのは、フレンツェにある世界最古の薬局「サンタ・マリア・ノヴェッラ」です。その香りの調合はこの薬局で500年にもわたり忠実に伝えられ、製法もそのままに今も作り続けられています。

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*メディチ家の紋章

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*ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』1484年頃

メディチ家の所有した絵画の多くはこの街の「ウフィッツィ美術館」に収められています。メディチ家と交流が深かった画家“ボッティチェリ”は、メディチ家の農園に咲き乱れていた草花や薬草を実物大に写生しています。「全てを自然のままに表現しよう」というルネサンス思想。『ヴィーナスの誕生』に巻き散らされている花は、香水の原料であるローザ・アルバ(ブルガリアローズの亜種)。『春』に描かれている40種以上もの薬草や植物はどれもこれも実在するもので、その描写の確実さは品種まで特定できる程だそうです。美術館の数々の名作にまさに“今こそ楽しみてあれ!”状態、魂を磨くどころか、魂をすっかり奪われてしまったようです。
注:ネオフィスト研究所は、数々の視察旅行を“薬剤師としての刃やいば(感性と魂)を磨く旅”と位置づけております。
(2006年8月取材)

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*シニョリーア広場に隣接する『ウフィッツィ美術館』
 代理石像は<ヘラクレスとカクス>

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*ポンテ・ベッキオ橋とその上のヴァザーリの回廊。
 メディチ家の宮廷とフィレンツェ市街地を結ぶ
 (ウフィッツィ美術館の中から見える)

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2007年04月08日

●イタリア●ミラノにて"ダ・ヴィンチ巡り"(城戸まゆみ)

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*4人の使途を従えたダ・ヴィンチ像ミラノスカラ座の前にて

薬学部の急激な増設、薬学6年制の開始、薬事法や医療法の改正、業務のIT化・・・。現在の「薬学ルネサンス」はもうすでに始まっているようです。この変化を受け入れ、新しい時代に挑戦する精気を養いましょうと、2006年の夏、ルネサンス発祥の地イタリアを巡ってきましたので報告します。
ヨーロッパの暗黒の中世、思想や学問はキリスト教会に強く支配されていました。科学実験は神への冒涜であると禁じられ、病は罪を懺悔することで癒されると信じられていました。そのため多くの科学者や薬草摘みの女性たちが魔女狩りの悲しい犠牲になりました。そんな時代を払拭し、新しい画期的なものの見方、考え方が生まれたのがルネサンスです。
夏のバカンスのため人通りもまばらなミラノの街で、最初に私たちを出迎えてくれたのは、ルネサンス期最大の天才『レオナルド・ダ・ヴィンチ』の像でした。4人の使途に混じってそびえ立つダ・ヴィンチの周りを取り囲むと、自分も巨匠の弟子になった気分です。ミラノ大聖堂ドゥオーモはダ・ヴィンチも建設に関わっています。天に向かう何本もの白い塔はひとつひとつ違った繊細な彫刻で飾られています。大聖堂の屋上からミラノの景観を望み、かつてこの場所に充満していたであろうルネサンス精神をスーッと全身に吸い込み、心のデトックス。
さあ、次は聖マリア・デッレ・グラツィエ教会へ向かいます。そこにはあの『最後の晩餐』があります。食堂だったという暗い部屋の扉が静かに開くと、正面の壁一杯に『最後の晩餐』。お馴染みだったはずの絵画はなんと決して動かせない壁画だったのです。ここでしか見られない、本物!この場所で精魂込めて絵を描き上げるダ・ヴィンチの姿が伝わってきます。絵の端から端に移動しながら、私なりに『ダ・ヴィンチコード』を突き止めようと試みます。静かに語るキリスト、どよめく使徒の一瞬の表情、浮かび上がるMの暗号、マグダラのマリア?絵から摩訶不思議なオーラが発せられています。少し離れてみたり、近づいてみたり。キリストの足元にぽっかり孔が空いています。ここをナポレオンが占領したときに壁の奥に馬小屋を造り、そこへの通路として絵に孔を開けてしまったそうです。なんて心のないヒドいことを。

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*サンタ・マリア・デレ・グラツイエ教会

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*食堂にダ・ヴィンチの傑作『最後の晩餐』が描かれている。『ダ・ヴィンチ・コード』人気により、今は予約をとることさえ難しい

聖マリア・デッレ・グラツィエ教会から10分程歩いたところに、ダ・ヴィンチ国立科学博物館があります。そのメインであるダ・ヴィンチ・ギャラリーには、彼の数々の発明を再現した模型がノートとともに展示されています。飛行機に、自動車に、船に、汽車、水門や橋に、楽譜や楽器、大砲に戦車などなど・・。これだけのものがたった一人の頭脳からひらめいたのだから凄い!そしてとくに目を奪われたのが人体の解剖図。骨と筋肉組織、目の構造、子宮の中で丸まった胎児など。どれもリアルにそして芸術的に描かれています。どんどん広がる人体への探究心を抑えきれずダ・ヴィンチは病院での解剖に没頭したそうです。そしてそれは世界で初めて動脈硬化を発見する功績に至ります。近代医学の幕開けですね。建築家、画家、科学者、医者など、多彩かつどの分野においても一流であるダ・ヴィンチに出会いました。ルネサンスとはいえ、常識を破るようなダ・ヴィンチの知的好奇心と鋭い観察眼、またそれを表現できる才能にイタリア初日から唖然です。
(2006年8月取材)

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*ダヴィンチ国立科学博物館

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*ダ・ヴィンチが建築に関わったミラノの大聖堂ドォーモ(残念ながら来訪時は修復中)

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*8月末ミラノの薬局はクローズしたまま薬剤師も2、3週間バカンスでお休み!?

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